念流について6 「念流」の剣術から馬庭念流へ。そして現代へと続く…

歴史・地理

こんにちは!

いかがおすごしでしょうか?

また、馬庭念流は俗称で正式には念流という見解もあるようだ。念流とは念阿弥慈恩の始めた剣術流派である。樋口定次が念阿弥慈恩の弟の赤松三首座が伝える系統の念流(念首座流)を友松氏宗(友松偽庵)より学び、

上州多胡郡馬庭村で道場を開いたため、馬庭念流と呼ばれる事となった話は既に述べたが現在でも所縁のある家により引き継がれ伝えられている。さて、群馬県は念流が受け継がれてきた地域として有名なのは今までの話しでよく理解できたと思う。

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1.はじめに

そこで関連ある話として群馬県吾妻郡「嬬恋村」と念流の関係を記したい。

念阿弥慈恩の念流が弟子筋に受け継がれてきた経過の概要は述べたと思うが、木曽義仲四天王の一人に樋口次郎兼光という武士がいる。

2.念流剣術は馬庭念流へと流れを汲むが、ある「村」との関連が…

2-1.念流剣術と馬庭念流と、とある「村」との関連

その樋口次郎兼光の子孫で樋口太郎兼重という者がいるがこれが念阿弥慈恩より念流を習ったとされる。この流派の呼称は「兼光念流」と言われるようだ。

前述の樋口次郎兼光が現在の長野県下伊那郡の「樋口村」に住居を持ったので「樋口」と名乗ったようだ。そして樋口太郎兼重の子孫、樋口高重が上野国(今の群馬県辺り)の吾妻郡小宿村つまり現在の「長野原」町応桑小宿に転居したとされる。

2-2.念流剣術から馬庭念流へ。その誕生前には系統が分かれていた!?

長野原は嬬恋村と結構近く、嬬恋村は戦国期、真田軍の領地となっており真田流の古武道とも関係が深いようだが、それとは異なる系統の武道、つまりそれが所謂、「馬庭念流」の元の誕生といわれる訳だが、それが定着した地とされるようだ。

しかし、真田軍団が進出してきたことにより、危険を感じたのだろうか樋口氏は上州多胡郡馬庭村(現在の群馬県高崎市吉井町「馬庭」)にまた転居した。

3.おわりに

その場所、つまり「馬庭」の土地で伝えられた念流なので馬庭念流と呼ばれるようになったようだ。呼称は馬庭念流と言われるが「念流」には変化なく引き続き継承されているという。

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